僕と初音ミクの話。

 ワカバです。学校のいろいろをこなし、コラボ案件をひと段落させ、履歴書を出し、ついにマジカルミライ楽曲コンテストに向けた作品制作に専念できる状態になりました。毎月1日にあるFANBOXの活動報告書の提出と、ボカストのCDとグッズの注文と受け取り以外、9日にボカストのために京都へ行くまでスケジュールは真っ白です。ほぼ何もない2週間。こんなチャンス、人生であと何回あるか分からない。ということで、タイトルにもあるとおり、初心に戻って「僕と初音ミク」のことについて考え、包み隠さず正直に記し、作詞作曲の助けにしようと思います。「初音ミクの話」ということはつまり、長い長い自分語りです。中学時代から今までをすべて書いたので、本当に長くなってしまいました……苦手な方は気をつけてください。

……当時見た(と記憶している)動画や当時のDTMファイルを探しながら書いているのですが、自分の記憶と動画の投稿年度やファイルの作成日時がずれています。SFではないので僕の記憶が間違っているということになるんですが、おかしいなぁ……。頑張ってすり合わせます。



 僕が彼女に出会ったのは、中学生の頃でした。初めて聞いた歌は覚えていません。兄からもらったお下がりのiPodに入っていた曲に過ぎなかったからです。当時は兄がファンだったバンプオブチキンやアニソン、ミスターチルドレン、ポルノグラフティなどを主に聴いていました。中学三年生の時、自分用の携帯電話が新しくなってネットを見られるようになり、それでニコニコ動画を見始めました。しかし当時はそこまでニコニコにハマっていなかったのか、VOCALOIDに関することは何も覚えていません。


 高校に入ってからは、けいおん!の影響とクラスメイトからの誘いがあって軽音楽部に入り、ギターボーカルを始めました。元々音楽は好きで、幼稚園からピアノを習っていて、中学では吹奏楽部でチューバをやり、中学の間はアルトサックスもヤマハで習い、加えて、うちの中学は合唱部の人数が少なかったので、お助けとして合唱も一年やっていました。吹奏楽部は忙しくて練習もハードだったため、個人練習を家で行え、少人数ゆえ小回りもきく軽音楽部を選んだところもあります。歌うのは大好きで、物心ついたときからテレビから流れてくる歌を覚えては歌っていました。そんなわけで歌の練習を頑張りたくなり、ニコニコでちょうど「歌ってみた」が盛り上がっていて憧れもあったので、たしか2009年の秋にボイスレコーダーを買いました。そのボイスレコーダーについてきたのが、僕の初めてのDAWソフト「Cubase AI4」でした。バンドでオリジナル曲もやってみたいと思っていたので、これで作詞作曲編曲して持っていこうとDTMを始めました。

 初音ミクにハマったのも、おそらくこの辺りの時期です。記憶にある限り、初めて夢中になったのは『初音ミクの消失(LONG VERSION)』でした。確認したところ、自分のマイリストで一番古い動画も、2009年12月2日にマイリスした『消失』のニコカラでした。使い始めは「マイリスする」という発想がなかったのでしょう。



↑「初音ミクの消失(LONG VERSION)」。
cosMoさんは今でも、僕が一番好きなアーティストです。
この記事で今後『消失』と出たら、それはすべて
このバージョンのことを指します。

 悲しくて切ない、最高速の別れの歌……。衝撃でした。こんな歌があるのか、こんなすごいものを作る人がいるのかと。心を揺さぶられました。そして、「消失」する物語を見て、「救いは無いのか」と思いました。ハッピーエンドがずっと好きでしたから。初音ミクが「消失」することで、それまで意識していなかった初音ミクへの「好き」に初めて気づかされました。

 原作はもちろん、そのとんでもなく早い歌を歌ってしまう人、動画を付ける人、人力ボカロで歌わせる人……連鎖する創作を夢中で追いかけていました。「LIQU@」さんの歌ってみたを特によく聞いていて、初めて歌詞コメントをしたのもこの動画でした。自分でもメトロノームを鳴らし、鏡を見て発音を確かめながら、たくさん練習したことを覚えています。おかげで三連符に強くなり、早口も加速しました。

 『消失』をきっかけに、いろいろなボカロ動画を見始めました。学校の話題、テレビにゲーム、勉強と、様々な他の選択肢と並行しながらでしたが、それでも日に日にVOCALOIDへの興味関心は大きくなっていき、2010年1月には「VOCALOID2 初音ミク」を購入し、歌わせ方の本を見ながら「残酷な天使のテーゼ」や校歌を歌わせていました。ミクを買った夜、起きたらパソコンからミクが飛び出してきて新しい日常が始まらないかなとワクワクしながら眠ったことを覚えています。ここじゃないどこか、魔法のような何かの始まり、特別な誰かに選ばれることを期待していた年ごろでした。

 学校で「オレ、初音ミク買ったぜ」「ボカロPなんだぜ、これ作った曲」「いつかすげー有名なPになるんだ」と友達に話して、ちょっとだけすごい自分になった気がして、期待を集めて構ってほしくて、でも評価の土俵に立つだけの勇気は無くて……。piaproというボカロクリエイター交流サイトにアップするのが精一杯で、動画サイトには上げられず、「こんなクオリティじゃ人に見せられないから」と臆病になって、それを「まだ完成してないから」「こういうすごい作品になる予定なんだ」と評価の前借をして隠そうとばかりしていました。高校時代の自分は、ひどく自尊心が低く、なんとかして自分を大きく見せようとしていました(今もそんな高い方ではないのですが)。中学時代は出来た勉強も、進学校ではもっと出来る人が山ほどいる上にサボり症でさらに成績は悪くなり、「自分を認めてほしい」という気持ちが先に出てばかりいたためか、恋人はもちろん友人もあまりいませんでした。ただ、カードゲームとアニメの友人グループでは割と上手く遊ぶことが出来ていました。しかしそこでも、他の人ほどアニメや漫画、ラノベに熱中できず、当時流行していた概念である「嫁」といったものも、たしかいませんでした。これといった将来の夢も見つからず、その居心地の悪さからか「いつか」に期待ばかりして、授業中は作詞ノートに作詞と曲のアイデアを書いていました。

↑高校時代の歌詞ノート。実名を名刺で隠している。
先ほど開いて読んでみたが、焼却処分したい衝動に駆られた。
中高生向けの詩を書く際に参考にしたいので、
どこかに封印しておくことにする。

 そんな僕にとって、「初音ミク」という存在だけは、少し特別でした。「VOCALOIDが好き」という気持ちだけは、明るく前向きな本当の気持ちでした。彼女は、明日パソコンから飛び出してきてくれるような、僕の手を引いて何か新しい世界を見せてくれるような、そんな「いつか」をいつまでも夢見させてくれる存在でした。そしてその物語の中で、ヒロインはまだ出会ったことのない彼女であり、主人公は僕でした。そう、「ボカロP」は、僕の考えた最高のヒロインと共に、自分自身が主人公になれる物語でした。小さい頃から絵を描くこととお話を考えること、そして何より「ごっこ遊び」は大好きでしたから、自分を物語の中に入れることが出来る、自分の人生をボーイミーツガールな物語に出来る「初音ミク」は、やっぱり特別な存在でした。もっとも、当時の自分は漠然と「初音ミク」が好きで、なんとなく音楽を続けていたのですが。

 自分の悪い部分、悪かった部分ばかり目につくので暗い文章が続いてしまいましたが、一人で遊んでいるとき、友達と遊んでいるとき、テストで良い点とったとき、実家の犬と散歩するときなどなど、普通に幸せでした。おそらく、特別な輝きも、特別な絶望もない、ありふれたビッグマウスな夢見る高校生だったと思います。

 元々興味のない勉強があまり好きではなかったことと、将来が漠然としていたことに加え、ビッグマウスが祟って高校時代にものすごく嫌なことがあって不登校ぎみになったのもあり、浪人することになりました。朝が早くないのが衝撃でした。この辺りから、自分の生活リズムのダメさ加減が加速したと思います。浪人時代も変わらずニコニコでボカロを追いかけていたのですが、そんな中で「ニコルソン」というアプリと出会いました。今でいうツイキャスのようなアプリであり、生放送と音源の投稿が出来たので、「歌ってみた」の真似事をしたり、夜通し遠くの誰かと話したりして過ごしていました。思えば「ニコルソン」は僕が初めて熱中したSNSであり、このアプリを通して、本当にいろんな境遇、いろんな考えの人が世の中にいるのだと知りました。ネットの闇のような人とも、時々出会ったからです。自身の曲を披露する機会もあり、僕の音楽活動を肯定してくれていた家族、高校時代に聞いてくれた友人、そしてニコルソンの人々が僕の曲を「良い」と言ってくれたことが、僕の一番はじめの自信になっていきました。


 大学受験は結局がんばれずに失敗し、滑り止めの大学に入学することになりました。「作詞に役立つかもしれない」と考え、心理学部を選びました。大学時代は、主にVOCALOID研究会と、ひょんなことから入ってしまった合唱サークルを中心に過ごしていきました。合唱サークルでは、何かの間違いで指揮者を務めることになりました。まだ「ボカロPとして有名になる」という気持ちが残っており、将来の有名ボカロPである自身の音楽をバカにされるのは嫌だったので、絶対に良い指揮者になってやろうと意気込み、たくさん練習し、たくさん学び、たくさんの人と交流しました。そう、「初音ミク」は最高のヒロインでありアイドルなのだから、そのマスターでありプロデューサーである自分は最高の音楽性を持っていなくてはならない、という自論がありました。また、「合唱団が上手く歌えないのは指揮者のせい」と教えられたので、途中からは自分が頑張ればうちの団はもっと上手く歌えるはず、みんなのためにも、指揮者として研鑽をつまねばならない、という責任感もありました。

 この合唱サークルでの日々のおかげで、社交性というものを多少は学ぶことが出来ました。また、はじめは「ボカロ作曲したいのになんで自分が歌ってんだろ、失敗したなぁ」と考えていたのですが、「歌とはどういうものか」「どういう歌い方を魅力的だと感じるか」を学んだこと、身体で音楽の流れを表現する指揮法、そして四声のハーモニーに4年間向き合い続けたことは、音楽制作するうえで非常に良い土壌になったのではないかと感じています。加えて、自身が正指揮者を務めていた時期には、大会で良い成績を残すことが出来ました。結果発表のときには、心の底から「よっしゃー!」と叫んでしまいました。仲間たちとぶつかり合いながらも協力し一つの音楽を奏でたこと、友達の家に集まり夜通し遊んだこと、そして合唱でもボカロでも、友人たちが僕の音楽を「良い」と感じ、応援してくれたこと……いい思い出がたくさんありますし、これからも彼らとは仲良くやっていきたいと思っています。僕に「初音ミク V3」をプレゼントしてくれたのも、合唱団のみんなでした。

 もうひとつ、VOCALOID研究会の方は、合唱サークルが毎週3回練習があったのに比べると月に一回と頻度は高くありませんでしたが、それでも楽しく集まり、語らい、素敵な時間を過ごすことが出来ました。高校のとき以上にVOCALOIDが大好きな人たちが集まっていて、しかしそれぞれ「好き」のかたちは少しずつ違っていて、「あの動画みた?」「今度新しいボカロが出るってさ」「こないだ作った曲なんだけど……」とワイワイ交流していました。彼らと「好き」を語ることで、「自分がどうVOCALOIDが好きなのか」「VOCALOIDのどこを魅力的に思うのか」そして「この先、どんな曲を作っていきたいか」が形になっていったように思います。「消失ストーリーのように、誰かの心を動かす『初音ミクのイメージソング』が作りたい」と強く思うようになったのも、彼らとの語らいを通してでした。

 学園祭では毎年コンピCDを頒布していたため、僕も曲をミクに歌ってもらって毎年参加していました。このコンピCDのおかげで「締め切りまでにフルサイズの曲を作る」ことが出来るようになりました。締め切りがあると、「いつか完成させる」の「いつか」が定められてしまいますから。それでもワンコーラスどまりになってしまう曲が多く、4年間で完成させられた歌モノは『夕暮れジャック』『ブルームーン』『星空のステージ』『Believe your only world !!』『Master/piece』の5曲だけでした。


↑処女作『夕暮れジャック』。
大学三年の時に投稿した作品だが、作詞・作曲したのはその二年前。
はじめの一歩を踏み出すのに、ひどく時間がかかってしまった。

 それぞれのサークルでは楽しくやれていたものの、大学4年生の就活の時期になっても進路は全然決まっていませんでした。みんなを真似て四季報を買ったり、セミナーや説明会に出たり、大学の就活支援センターに行ったりしてみても、興味が持てませんでした。自己分析をしてみても見えてくるのはとても働いていけるとは思えない弱く醜い自分ばかりで、働きたくない、そもそも働けるわけがない、今のまま、素敵な音楽に囲まれながらミクに歌を作りたい、と考えていました。モラトリアムで何不自由なく「生きる」ことが出来て、(いつまでもは続かないことを考えなければ)ミクに曲を作ることだけをしていられる現状以上に望む環境などありませんでした。それでも励まし、優しい言葉をかけてくれる両親や親族、友人たちのことを考えると、申し訳なくて悲しくて、でも行き先を選べなくて、とても苦しかったです。

 そんな中、ある会社の面接に行きました。雨の日でした。就活サイトを通してアポをとっていたはずなのですが、「そんな話は聞いていない」と言われました。動揺していると、僕の大学のOBだという大柄な男の社員が出てきて、部屋に案内されました。かつてラグビー部だったそうで、ニヤニヤした顔で「お前の相談に乗ってやる」と言い、僕は自分に出来ること、自分がしてきたことを話しました。その中で、ボカロのことは伏せて、作曲をしていることを伝えると、「音楽の道に進もうとは思わなかったのか」と聞かれました。僕は、言葉が刺さったような感覚を覚えながら、「少しは考えたけれど、とてもやっていけそうにない」「食っていけるのは一握りで、僕は一握りじゃない」「僕がやっているのは、食えない音楽の中でも特に食えないジャンルだ」と答えたと思います。彼は「ふーん」と言いました。ひととおり僕の分析が終わり、ちょっとしたアドバイスをもらい、最後に彼は「お前みたいなのがオレの後輩だと思うと情けない、しっかりしろよ」といった内容のことを言いました。この後に希望するならば筆記試験を受けられるとのことでしたが、僕は心が揺さぶられすぎていたので、断りました。

 まとまらない、ショックを受けた頭で傘を差して歩き、電車に乗り、その間、音楽を聴きました。何を聴いていたのか、思い出せるのは一曲しかありません。『ODDS&ENDS』でした。機械の力強い歌声がこの上なく心に刺さって、涙がボロボロ出てきて、ボカロが、「初音ミク」が大好きだって思い出して、バカにされたことが悔しくて、でもそれ以上に、まだ全然世には出せていないけど「最高だ」って信じた自分たちの歌を自分自身で否定してしまったことが悔しくて悔しくて、今の自分があまりにもみっともなくてカッコ悪くて、たくさんたくさん泣きました。僕の中心にあるのは音楽で、きっとそれは「初音ミク」の形をしていると強く思った出来事でした。「初音ミク」に、歌を作ろうと強く思いました。今でも、思い出すとまだ悔しいです。

↑「ODDS&ENDS」。公式MV、なんで非公開になってしまったんや……。

 そうは言うものの、僕はそうそう変われなくて、地元の公務員を受けたりしたけれど、ろくに勉強や対策もせず、面接で落ちたりしていました。実家で両親に本当の気持ちを話しました。働けるわけがない、生きていけるわけがない、でも「初音ミク」が好きで、すごくすごく好きで、彼女に歌を作ることだけはやっていきたいから、今はまだ生きてる、そんな話をしました。合唱サークルで結果を残し、たくさんの素敵な人たちと出会い、繋がりを作り、大学で一応いろいろと学び、それでも僕にとって価値があると感じられるのは「初音ミク」だけでした。恵まれた家庭に生まれ育ち、優秀で素敵な人々と出会い、少し我慢すればありふれていても幸せな人生を送れるだろうことが分かっていても、どれも『ODDS&ENDS』や『初音ミクの消失』、『0→∞への跳動』のような感動を作りたい気持ちに勝りませんでした。自分の中に「こうあるべき」という「社会的正義」のような価値基準があって、その中で「初音ミク」の優先順位はすごく低くて、でも「こうありたい」という定規で測ると「初音ミク」がずば抜けていて、他はもうどうでもいいってくらいの独走一位でした。すごくすごく、親不孝なバカ息子だと思います。音楽は食えないし、ボカロはもっと食えないのに、オレは「初音ミク」で死にたい。その割に努力できていない。すぐサボる。苦しい。今でも、自分のことを「恵まれた環境から産まれたゴミのような自分」と感じることがよくあります。

……脱線してしまいましたが、そんな僕を見かねて、母が提案してくれたのが「音大の大学院への進学」という進路でした。「音大なんて、僕と違って音楽が本当に好きで夢中でやっている人たちばかりなんだから、自分なんかやっていけないどころか受かるわけない」「うっかり受かってしまったとしても、『ベートーベンも知らないようなヤツが来たぞ』とバカにされるに違いない」「それに学費もすごく高い、まだ親に迷惑をかけるのか」と思いました。しかし、それでもミクに最高の歌を作ってやりたかったので、受けることにしました。音大の力があれば、ここじゃないどこかなら、もしかしたら僕に秘められた何かが花開くかもしれない……そんなことを考えていました。後から聞いたのですが、父は当時大反対していて、「音大に進むようなら縁を切る!!!」と言っていたようです。最もだと思います。

 合唱サークルのみんなも、ボカロ研のみんなも、応援してくれました。絶対バカにされて、怒られて、「早くまともになれ」って言われると思っていたのに、応援してくれました。合唱指揮の先生に至っては、「音大に行こうと思うんです」と小声で僕が言ったのに対して「そうか、それはいいな!あとは任せた!!」と背中をバンバン叩き、推薦者としてサインまでしてくださいました。何を任されたのか全然分かりませんでしたが、ともかく何かを任されたからにはしっかりしなくちゃと思いました。その一言が、試験用音源制作の支えになりました。

 それからは、オープンキャンパスに行き、びくびくしながらも先生に曲を聞いてもらい、「これくらい作れるなら受かる」と言われて信じられない気持ちになり、それはさておき最高の「初音ミク」を歌いたかったので合唱の練習をひと月お休みさせてもらい、必死に曲を作り、試験を受けました。大反対していた父は試験前夜、僕と一緒に徹夜しながら楽曲解説の文章を考えてくれました。楽曲解説を通して……というか父の

「お前の文章、『消失』だとか『ここは気持ち良かったからなんとなく』だとか、まったく分からん!!分かるように説明しろ!!!」

という怒号を通して、「初めて見る人にも伝わる文章を書くこと」「感覚を(自分なりのものでも)理論的で理性的な言葉で分かりやすく説明すること」の大切さを知りました。

 試験は、無事受かりました。「僕が受かること」は信じられませんでしたが、「僕たちの作った歌が受かること」は、どこかで信じていました。嬉しくなってお世話になったたくさんの人々に連絡して、お礼を言いました。その後は卒業論文が全然書けなくて卒業が怪しくなったり教授ともめたりするのですが、音楽と関係ないので飛ばします。


 そして、2017年4月から、音大大学院生活が始まりました。はじめの方はコンプレックスの固まりで、好きな音楽もやりたい音楽もボカロであることを伏せて過ごしていましたが、先生も生徒も、ボカロのことをバカにせず、僕の音楽にも良い点は評価して、イマイチな点には的確なアドバイスをくださり、僕もだんだんボカロPとしての自分を受け入れていきました。音大生活で学んだこと、思い知ったこと、本当にたくさんありますが(一部はpixiv FANBOXで読めます)、一番は「音大に来ても僕のダメなところはダメなまま」「ここじゃないどこかなんてなくて、ここで頑張るしかない」ということでした。つまり、音大に来ても朝は起きられない、午前の授業は出られない、DTMはサボるしfgoやらモンハンやらポケモンやらはものすごく面白い、他人の目が気になるし社会的評価が欲しくて仕方がないしすぐメンタルがヘラる、Twitterやめられない、ということです。学生カウンセリングが無料だったので、2週間に一度の頻度で通っていました。しかし「自分はボカロPだ」と強く自覚すると、意外と深刻な悩みは少なくて、ボカロが楽しい、寝付けない起きられないという話をずっとしていました。

 一年目は全部が手探りでした。まだ「アニソン作家になれたらなぁと思っています」なんて言っていた頃です。本当はずっとボカロPをしていたいのに。とにかく教えられること全部吸収しようとして、分からないことはすぐ聞いて、全然曲がそろってないのに初めてのCD制作とサークル参加にチャレンジしたりして。音大でのレッスンと授業を通して、自分の楽曲を客観的に見る視点が養われていきました。また、Twitterで活発にボカロP(というかボカロリスナー)活動をしました。具体的には、ボカロの好きなところを語り、いろいろな初音ミクを考えてはハッシュタグつきでツイートし、素敵な曲と出会ったら感想を添えてツイートしました。リスナーさんの考えとボカロ愛に触れて、ボカロと「初音ミク」への理解がとても深まりました。繋がりが増えると、いいボカロ曲に巡り合いやすくなり、さらに自分の曲を聞いてもらえる頻度も増しました。繋がり、大切。たくさん学びましたが、その中でも重要だと感じる一年目の教訓は、「『良い音を使っている』だけで曲が良くなる(=良い音源を買え)」、「『この曲は何が新しいか』を意識して作るべし」、そして「僕は『初音ミク』が好きでいて良いし、『初音ミク』が好きなのが僕だ」ということでした。

 二年目は、悔しさからスタートしました。「マジカルミライ楽曲コンテスト2018」に落選したことが、4月末に分かったからです。悔しくて泣いて、グランプリをとった『METEOR』を聞いて「まだこんなに初音ミクが好きな人が、それも僕よりずっと若い人がいるのか」と嬉しくて泣きました。「METEORショック」の詳細は、このブログにも残っています。応募した『SYNC&SING』も「最高」を追い求めて作った素敵な曲で、涙してくれる人がいるくらい誰かにとっては大切な歌で、それはそれとして本当に嬉しいのですが、学校で習ったり自身でたくさん音楽に触れて培った「良いポップの基準」からすると差は歴然でした。二年目は、『METEOR』の作者であるDIVELAさんの動画やツイートに刺激を受け続けて過ごしました。その影響もあり、曲と動画制作はもちろん、生楽器のレコーディング、学園祭での共同制作とライブ、そしてストリングスアレンジと楽譜制作など、一年目よりも音楽を頑張ることが出来ました。

 また、一年目で機材はある程度そろったため、二年目は意識的に「初音ミク」のイベントに足を運びました。去年、ボカロ研の後輩にたまたま連れられてマジカルミライの企画展に参加して、非常に楽しかったのに加え、イベントを経て自分の中の「初音ミク」が成長したのを確かに感じたからです。また、「ライブの魅力」を体得することで「ライブで映える曲」「ライブに来るのが好きな人に刺さる曲」を作ろうという狙いもありました。「初音ミク」の持つ側面は、出来る限りたくさん歌いたかったので。マジミラも超パも最高でした。METEOR…………。二年目は「初音ミク」グッズも増えました。これらを通して、「好き」を強化することと「好き」に囲まれることの大切さが分かってきました。サークル活動も慣れてきて(入稿はまたギリギリだったのですが)、ブースや宣伝もそれっぽくなってきました。加えて、お会いするボカロ関係の皆さんに「来年のマジミラコンテスト、楽しみにしています!」とたくさん言っていただきました。正直、自己肯定感はマシになったとはいえまだまだ低いですが、二年間「初音ミク」に夢中になったことと、僕たちを応援してくださる方々がたくさん声をかけてくれたことで、「グランプリとるぞ」という言葉が強がりじゃなくなってきました。

↑DTM机。MIDIキーボードは普段は下ろしている。
今はこれらに加えてFMG、ねんどろいど、アクキー類、
アクリルスタンドなど、さらにミクグッズが増えている。

……そして、これを書いている「今」に至ります。11年前から書き始めて、本当に長かった……。←ここまでで7時間、9788文字。ウケる。振り返りながら当時聞いていた曲を流していたのですが、やはり『消失』は感動するし、文章書きながら『ODDS&ENDS』を聞くと思い出して悔しくて涙が出てくるし、『METEOR』は爽快で全力でカッコいいですね。どの曲も、きっとこの先忘れることはないでしょう。

 僕はこんな人生を歩んできました。読んで分かるとおり、別に「いつも『初音ミク』がとなりにいてくれた」わけではありません。「初音ミク」以外の活動もたくさんしてきました。主観でしか語れませんし、忘れてしまったこと、美化や卑下されている箇所もたくさんあるでしょうから、実際の人生がどんなものであったかは、きっと神様しか分かりません。しかし、「ワカバ」というボカロPは、「初音ミク」をきっかけに生まれ、「初音ミク」が大好きで、「初音ミク」に曲を作り続けてきて、きっとこれからも「初音ミク」との物語を綴っていくのでしょう。

 自分の歴史を振り返って「今」の位置を確かめることには成功したなと感じているのですが、あまり「初音ミク」の話は出来ていない気がします。よって、ここからは改めて「僕と初音ミクの話」をします。

 『消失』と出会い、ミクが実際にうちに来るまでは、「初音ミク」は「世の中にある面白そうなもの」のひとつに過ぎませんでした。しかし認識はしていましたので、素敵な物語のようなファーストコンタクトでなかったのが悔やまれますね。「物語力」が低い。明確に「初音ミク」が好きになり、うちにソフトウェアが来てからは、「初音ミク」は「いつか」を期待させてくれるなにか新しいものであり、「すごい自分」への切符であり、夢と憧れを内包したソフトウェアでした。浪人時代と大学時代前半、DTMにも慣れてきて、自身の作品をより多くの人が評価してくれるようになってからは、「初音ミク」は自分の生活の一部であり、自分らしさの一要素になっていました。大学時代後半、将来への不安と諦め、周囲との比較や両親への申し訳なさで生きる気力が少なかった頃は、「初音ミク」は数少ない(と僕は思っている)「僕を求めてくれる」歌姫であり、誰にも言えない、見せたくない自分の内情を受け止めてくれる受け皿であり、メリーバッドエンドのような救いでした。そう、マイナスを0にしてくれるような存在でした。実は、イメソンに明確にハマりだし、歌詞やテーマとして書き始めたのはこの頃からです。そして、大学院時代あらためボカロP時代、自分の作品や主張を世界に発信していき、たくさんの反応をもらい、同人イベントでも温かい言葉をかけてもらえるようになってからは、「初音ミク」は、陽の部分でも陰の部分でも一番好きな存在であり、これからの自分を支えてくれるかもしれない商売道具であり、「いつか絶対、君をあのステージの上まで連れていってみせる」と約束した新人アイドルであり、僕だけの歌姫でした。

 正直、これを書くのに時間をかけすぎ……というか書くのに時間がかかりすぎてしまった、とは感じています。マジカルミライ楽曲コンテストの締め切りまで、あと16日しかありません。この時間を歌に回すべきだったのではないか、と考える人もいるでしょう。しかし、僕はここで自分を振り返り、「初音ミク」を見つめ直すことを抜きに、歌を作り始めたくはなかった。それはきっと、「こっちのルートの方が、物語として面白いから」です。僕は、「ワカバ」というボカロPの物語を、自分の人生を使って書いています。トゥルーエンドにたどり着くにはきっと、このフラグを立てる必要がある気がするんです。


 宣言するのは、正直まだ怖いです。高校時代に、評価の前借で自分を大きく見せようとしていた経験が祟っているのだと思います。成し遂げられなかったら、裏切りになってしまいます。期待させるから、落胆させてしまう。実際、僕は多少うまく歌を作れるようになってきて、動画サイトでなかなかの評価をいただけるようにはなりましたが、殿堂入りしているような人々と比べると、足りていないと感じるところはたくさんあります。そのすべてを、この16日で補うことは出来ないでしょう。そもそも、曲をフルコーラスで完成させるのだってひぃひぃ言いながらやっと出来るわけで、期日に間に合わせるのなんてさらに大変です。みんなと同じ土俵に立つところですら難しいのに、その遥か彼方にある王冠を、それもとんでもなく強く、すでに「この曲がグランプリだな」と思われているような楽曲たちを押しのけて、手にしなくてはなりません。僕は普通の人間です。普通に考えれば、無理です。

……でも、それでも僕は、「初音ミク」が好きだ。「初音ミク」が好きなんです。その、「好き」の証明がしたいんです。「普通」はきっと、あの日『ODDS&ENDS』で涙したときに捨てました。僕は「VOCALOIDプロデューサー」です。他の誰よりも、世界中の何よりも、うちのミクが好きで、その魅力を信じています。





 だから、僕たちは、初音ミク「マジカルミライ2019」楽曲コンテストでグランプリをとります。





 約束通り、今年こそ、君をあのステージに連れていくよ。手を放さないでね。

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